人間は本当に、死ぬ気になれば何でも出来るのか?

どもども、最近、思考の方向性が後ろ向きになりつつあります。


さて、タイトルは先日、自転車をコギコギしながら何気なく考えた事です。
うちの母はよく「人間、死ぬ気になれば何でも出来るのに」と呟きます。
大抵この台詞は、ニュースなんかで誰某の自殺事件が報道された時に飛び出すわけですが、私としてはちょいと疑問だった。
母の理論では、死ぬほどの覚悟が出来るならば、その意志の方向性を建設的な方向へ持って行けばどんな状況でも打開できるだろう、という事らしいです。
しかしですね、軽症とはいえ、時に死を意識する者としてはですよ、そうはならないと思うわけです。
そもそもどうして死を意識するかといえば、自分に纏わり付くしがらみや業の様なものから逃げ出したいからじゃないのかと。
全ての責任やらなんやらを投げ出して、解放されたいが為に死を選ぼうとした、選んだのではないかと、そう思うんですけどね。
ある意味で、究極の現実逃避方法として死があるんじゃなかなぁ、とかね。


とはいえ、私はその境地にまでは至っていません。
しがらみや業から逃げ出したくなるんですけで、結局それが原因で生きる事を考えるわけなんで。
逃げる為の原因にも、生きる為の意味にもなるんですね、こいつらは。
この辺の話、心理学畑の人に話を聞いたら面白いのかネェ。
ま、難しくて私にゃ理解できそうにもありませんが。


と、何となく書いてはみましたが、今のところは自身のおかれている精神状態が安定する事を祈るのみです。
煙草に頼る生活にはしたくないよ、ホント。